中國の古代住民は海洋経営と海上の漁業(yè)に従事してきた実踐において、最も早く釣魚島を発見し、命名した。中國の古代文獻には、釣魚島は釣魚嶼、釣魚臺、釣魚山とも呼ばれている?,F(xiàn)在見つかっている範囲で、最も早く釣魚島、赤尾嶼などの地名を記載した史籍は、1403年(明?永楽元年)に完成した『順風相送』である。これは、早くも14、15世紀に中國はすでに釣魚島を発見し、命名したことを示している。
1372年(明?洪武5年)に、明太祖は琉球へ使節(jié)を派遣し、琉球國王は明朝に朝貢した。1866年(清?同治5年)までのほぼ500年間に、明?清2代の朝廷は前後24回にわたり琉球へ冊封使を派遣した。釣魚島は冊封使が琉球に行くための経由地であった。中國の使節(jié)が著した報告には、釣魚島に関する記載が多く出てくる。例えば、陳侃の『使琉球録』(1534年)、郭汝霖の『使琉球録』(1562年)、蕭崇業(yè)と謝傑の『使琉球録』(1579年)、徐葆光の『中山伝信録』(1719年)、李鼎元の『使琉球記』(1800年)、斉鯤と費錫章の『続琉球國誌略』(1808年)などがある。
明朝の冊封副使謝傑が書いた『琉球録撮要補遺』(1579年)には、「往路は滄水より黒水に入り、帰路は黒水より滄水に入る」とある。明朝の冊封使夏子陽が書いた『使琉球録』(1606年)には、「水は黒水を離れ滄水に入る、必ずや是中國の境界」とある。清朝の冊封使汪輯が書いた『使琉球雑録』(1683年)には、赤嶼の外の「黒水溝」こそ「中外の境界」であるとある。清朝の冊封副使周煌が書いた『琉球國誌略』(1756年)には、琉球について「海面の西は黒水溝を隔て、閩海と境界をなす」とある。以上の史料では、釣魚島、赤尾嶼は中國に屬しており、境界線は赤尾嶼と久米島の間の黒水溝(現(xiàn)?沖縄トラフ)にあると明確に記している。
釣魚島海域は中國の伝統(tǒng)的な漁場であり、中國の漁民は代々同海域で漁業(yè)を営んできた。また、釣魚島は航海の目印として、歴史上中國の東南沿海部の民衆(zhòng)に広く利用されてきた。